☆とり年…病は人間に課せられた御修行である。自棄になるな
東京新聞TOKYO Web
令和元年7月11日から引用
この世の中には、様々な病で苦しんでおられる方がいます。
自分や周りの人間が、突然病にならないなどとは、誰にも言い切れないでしょう。
病は常に、人と共にあるのです。
さて、人は何故病にかかるのか。
病というのは、天罰ではないし、運が悪いために起こることでもありません。
人は、気付きのために病になります。
これは極論ですので、受け入れられない方も多くいらっしゃるかもしれません。
しかし、この病の本質から目を背けてしまうと、そこから人生を進めることは出来ないでしょう。
先天性の病の方は、あえて病というハンディを背負うことで、今世で体験すべき物事を明確化します。
そうした身体で生まれなくては出来ない、魂の学びがあるのです。それはとても尊い学びとなるでしょう。
人というのは、つい自分は個人であると思いがちですが、人というのは、他人との繋がりそのものでもあります。人生というのは、人との関わり合いといってもいい。
周りの人間の学びのために、病を選択する魂もあるのです。
では、後天的な病についてはどうでしょうか。
誰の身にも起こり得る、突然の病や事故。
これらは、様々な気付きのために起こります。
例えば、自分に無理をして頑張り過ぎているとき。
例えば、人生の進路を変えるべきとき。
例えば、人間関係で学ばなくてはならないことがあるとき。
例えば、自分の魂と向き合う必要があるとき。
人は死を意識したとき、初めて自分の人生の意味、生きる目的について考えることになるでしょう。自分と向き合うことが出来たなら、それだけでも素晴らしい気付きとなることでしょう。
病というのは、本人にとっても、周りの人間にとっても辛いものです。
しかし、病を苦しみとしてしか捉えなければ、そこにある学びに気付くことはできません。
何故、病にならなければならないのか。
必然的に起こっている病と向き合い、受け入れて初めて気付くことがある。
他人の大切さ、自分の大切さ、自分が成すべきこと、魂としての本質。
病というのは、人生に与えられた、修行でありギフトである。
魂の成長の観点から病を捉え、病を悲観せずに進んでいきましょう。
病は必ず、その人にとって最良の学びを与えてくれることでしょう。
人生における出来事は、その捉え方により全く違う様相になる。
病についての捉え方を間違わないように。