☆さる年…魚釣りに行きしが収穫なし。平凡なる日
東京新聞TOKYO Web
平成31年4月29日から引用
私達の毎日は、およそ建設的とはいえない日々が多くあることと思います。
ぼーっとしていたら1日が終わってしまった、そんな日もあるでしょう。
1日の大半を無駄に過ごしているという方もいらっしゃることでしょう。
しかし、無駄や有意義の違いというのは、案外大したことがないものです。
自分の未来のために計画的に充実した時間を過ごしたとして、それが一体何になるでしょうか。
自分にとっては有意義であり、未来に繋がる大切な時間であっても、それがこの世界に影響するでしょうか。
私達の毎日など、大きな宇宙の観点から見れば、ほんの小さな一瞬でしかありません。
有意義であっても、ぼーっと過ごした時間であっても、宇宙的には、さほどの違いはないのです。
それでも人は皆、懸命に生きている。
良い悪いといいながら、人を批判し合いながら生きているのです。
さて、私達は日頃、何に対してこんなに必死に生きているのか。
その熱量はどこからくるのか。
それは、自分がどうしたいのか、どうなりたいのか、その意志によるものです。
私達の人生は、私達のもの。
人生に総体的な意味はないからこそ、自分の人生に、自分だけの意味を見出そうとしている。
人生の中でもがき苦しみながら、少しずつでも前に進む。
自分で目標を掲げ、その目標に向かって進んでいく。
自由であるが故に目標を掲げ、目標を掲げた故に不自由になる。
滑稽であり、愛おしい、それが人間です。
過ごした時間についての意味は、自分で決めるしかありません。
目標が叶わなかった時間を、無駄と思うのか、その経験が次に活かせると思うのか、苦悩によって前に進めていると思うのか。
ぼーっとしている時間を、無意味だと思うのか、自分の心を落ち着かせるための瞑想だと捉えるのか、脳のリフレッシュと捉えるのか。
過ごす時間については、好きに思えばいいのです。
私なら、良く思うことしかしないでしょう。
自分で人生の意味を決めてしまえるのですから、充実した人生、実りある人生、素晴らしい人生であると、決めてしまいましょう。
どのような時間も自分の肥やし。
どう考えるかは自分の自由。
ならば、楽しく生きようではありませんか。
自分が生きたいように、生きていきましょう。
そうすれば、どんな時間も大切に過ごせるようになるでしょう。
人から与えられた生き方を捨てて、自分の時間を生きるとき。