☆とら年…醜さは誰にでもあるが、だらしなさは怠けた人間にしかない
東京新聞TOKYO Web
平成30年8月2日から引用
人はとかく、人としての醜さについて、内面の醜さよりも、外見の醜さばかりに目がいく傾向があります。
顔の造りや体のバランスをみて、醜いかどうか判断をする。しかしそんな見方で、人の何が分かるでしょうか。
どんなに外見の美しい人であっても、大小の排泄をする、鼻水を流す、おならもげっぷもするでしょう。それは生き物として当然の行為であり、どんな人間も、身体から出るものは、そんなものです。
人としての醜さは、内面にこそあります。
嫉妬や怒り、傲慢や無知、自分勝手な心の動きは、まさに人としての醜さであります。
しかし、この醜さは、人として当たり前のこと。醜くない人間など、どこにもおりません。
だからこそ人は、恥を知ることによって、学んでいくのです。
さて、人としての問題は、醜いことではなく、寧ろだらしがないということでしょう。
だらしなさは、人をますます恥知らずな無知にさせます。
向上しようとしない、自分を省みない、人と同化して自分を律することをしない。
そうして人は、その時その時を怠けることにより、だらしなさが身に付いてきてしまう。
だらしなさは、だらしなさを呼び、コミュニティーを広げていく。そうして、その行為がだらしないことが、分からなくなってしまう。
そのだらしなさこそが、真の醜さであると肝に銘じておきましょう。